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2018年2月

2018年2月18日 (日)

テトリス

最近、電車に乗っているタイミングなどでテトリスをやっているのだが、テトリスをやり続けて頭が良くなるのかというと、そんなオカルティックな訳もなく、単にテトリスが上手くなるのである。

視点を変えると、各業界で基本とされるものはあるのだが、それはテトリスじゃないの?という疑問があっても良いかもしれない。

正確に言うと、基本は大事なのだが、応用が出来ないと意味はない。例えば、ジャンルをボディワークに絞ると、脱力する為の体操をやって、それが上達したとして、じゃあ、普段はどうだろうか?という話。体操が上手になりました、という結果にしばしば陥りやすい。

型稽古の陥りやすい問題で、よくよく気を付ける必要がある。稽古の実際はもうちょっとデリケートで、瞬間の工夫があるし、それがおもしろい。

その点、自動車の教習所はよく出来ている。下手でも下手なりに運転が出来る様になる。なぜだろうかと考えてみると、それは授業の各回に具体的な目標設定があり、何を身に付ける為にやるのかというところで、ブレないからだろう。

やるやる詐欺で整体の教室を開催していないのだが、目標設定を細かくして、自動車教習所的なカリキュラムをつくれないものだろうか。

また、別のアプローチもある。上手な人とただ一緒にいるだけで、カリキュラムなんぞとはまったく関係なしに、勝手に上達するのも確かである。ミラーニューロン頑張れというか、こちらが学習の本質の様な気もする。

しかし、これには精神医学でいうところの転移が必須。転移を経路にして、技術が感染する。そして、自我の強過ぎる人が一定以上には上達出来ない理由でもある。属人的なものなのに、対象そのものを求めるからだよ。

大分前から気が付いているのだが、自分のテーマは「教育」ではない。だから、モラルは一切口にしないものね。子どもの頃に学習障害があったものだから、むしろ、「学習」がテーマとなる。それはリハビリテーションにもなっていて、人が対象をどの様に理解して、咀嚼していくのかに関心がある。

リュック・ベッソン『レオン』

薬師丸ひろ子は、Me too とか言わない様な気がするのだ。

そういえば、先日、女友達とMe too の話題になったのだが、矛先がなぜかリュック・ベッソンの『レオン』へと向かった。

アレを好きな男の人が多いけれど、ロリコン趣味をマッチョでカモフラージュしているだけなんじゃないの?アレに比べたら、誤魔化していない分だけ『タクシー・ドライバー』の方がマシよ、とのあんまりなおっしゃり様。

実は、好きな映画だったりする。エンティングテーマのスティングの曲も好きだったりする。あの歌いながら銃をぶっ放すゲイリー・オールドマンはダメですか?イカしてませんか?

男のマチズモがお嫌いということだったので、では、スタローンの『ランボー』や『ロッキー』はどうですか?とお尋ねしたところ、見たことないけど、どう違うワケ?とのコメント。

『ランボー』は撃ちますし、『ロッキー』は打ちますとジェスチャー混じりにお伝えしたところ、じゃあ、『ロッキー』の方がマシね。自分も痛い思いをするんでしょ?とのことでした。もうグウの音も出ませんね。

ヴィレッジ・ピープル『マッチョマン』

2018年2月17日 (土)

薬師丸ひろ子

昨夜は渋谷のオーチャードホールで、薬師丸ひろ子のコンサートを見て来た。

いやあ、ビックリするくらい若い人がいないね。たまに子どもを見かけたが、お孫さんですか?という感じ。

2階席だったのだが、始まるなりみんなオペラグラスをスチャッと使い出す。一方、自分はバランタインのポケットボトルを持ち込んでいて、しまった間違えた。

どこか前の方に空席があったら移ってやろうと企んでいたのだが、綺麗に満席で隙はなかった。歌手業35周年だそうな。凄い。

自分はリアルな世代ではないので、好きになったのはこの数年のことなのだが、若い頃の映像と見比べると、今の方が綺麗だし、歌も遥かに上手くなっている。

松本隆、井上陽水、大瀧詠一、等々、一流どころから楽曲提供を受けた綺羅星の様な曲の数々が眩しい。

10人近いバックバンドのメンバーが、カルテットのヴィオラ以外は全て男性なのが象徴的。オジサンに可愛がられた女性の完成形ではあるまいか。体癖は、5種8種10種というところか。

さっきそんな話を友達としていたら、最近、八神純子が復帰したけれど、二人とも独特にネットリしているが、八神純子の方はつくる世界が対照的だという感想があった。確かに、そうかもしれない。

2018年2月16日 (金)

講座

火曜日は佐々木先生の講座だった。

大概、腐れ縁なのだが、昨年はなぜかクリスマスと大晦日を一緒に過ごした。

講座後に酔い潰れて寝っ転がっていたら、左足首をムンズと掴まれてポキッと調整されたのだが、20代の前半に足首を折っていて、その影響が残っている。

意外に古傷は残っているものだ。そろそろなんとかしようと、昨日から自分でも調整していたのだが、なかなか手強い。

他人の体を見る様な目で調べ直したら、膝も捻じれていて、足首だけの問題ではない。更に調べていくと、どうやら腰椎の捻れが遠因になっている様なので、それを矯正したら、膝も足首も大分マシになった。

とにもかくにも、部分にトラブルがあったとしても、それを部分の問題として捉えないで、全体の問題としてアプローチしていく発想が手技療法にはある。

肩が凝っているから肩を揉みましょうといった様な対症療法ではないので、観察力が問われる。その分だけ習得は難しいのだが、その適応範囲は世間一般のイメージを軽く越える。結構、良くなるのだ。

毎月、火曜日に彼を講師にして、身体均整法の講座を開催している。同業者から見ても丁寧な講座なのだが、現在は参加者が少人数。技術は大人数で習ってもサッパリ身に付かない。そうしたことが分かる方には、かなり狙い目だろう。

2018年2月13日 (火)

心身の角質化

時たま、中高生くらいの女の子が施術を受けに来て、背中に触ろうものならくすぐったがって施術にならないなんてことがある。まあ、お年頃ですねと微笑ましい訳である。

ところが、30、40代でも同じ反応をする方が時々いらっしゃって、このやり場のない怒りはどこへ向けたら良いのかという感じ。しかし、体は敏感なので良い事だ。

男女問わずの話だが、むしろ、中高年になると体が鈍感になって、もう何にも感じません、肩も凝っていませんが、偏頭痛ですみたいなタイプの方が増える。触ってみると肩はカチカチに固いのだが、自覚はない。快にも不快にも、どこか鈍い。

云わば、心身の角質化。若いと心身ともに感性が粘膜の様に敏感。だから、若いというだけで、刺激を強く感じて辛くなったりもするのだが、若い人の特権でもある。

心身がいよいよ角質化して来ると、人生に退屈し出す。だから、ちょっと整体を受けてみませんか?という話。同じものを見ても違って見えるし、食べても違った味わいを感じる。

物の感じ方は全て主観だが、もしかしたら、その根拠は体にあるのかもしれない。単純に老化のせいではないのです。個人差が大きいのだから。

2018年2月11日 (日)

春に酔う

結局、東京にいるのである。

日月火と帰省するつもりで予定を空けていたのだが、北陸は大雪の為、都市機能が麻痺状態。帰って来てもしょうがないという連絡を受けて、帰省は中止となった。

代わりに、愛知県で西洋剣術のセミナーがあるというので、申し込みを検討したのだが、流石に酔狂が過ぎると躊躇しているうちに、予約がパラパラとあり、それも取り止めとなった。それで、fuluに入会して、ゲーム・オブ・スローンズを見ている。

そういえば、先日、また年を重ねたのだが、丁度、研究会の日だったので、一昨年から弟子入りしているWさんがケーキを差し入れてくれて、みなさんに祝って頂いた。

四十路も近いのだが、近頃、金星の輝きを感じる。男が一番やりやすくなる年代だろう。世の中がなんとなく見えて来て、上とも下ともどちらの世代とも付き合いやすい。ちょっと無理も通るんじゃないのと気が大きくなっている。

もう一勝負をするのなら、次の10年だろう。残った野心の欠片を掻き集めて、お尻を自分で叩いている。小さくまとまってこんなもんで良いのかと、自己陶酔どころか、最早、自己脅迫的である。

ところで、マインドフルネスが流行っているが、みんな不安が嫌な訳だ。しかし、状況が不味いのに不安を感じないのは、ただ単に危機感の欠如ではあるまいか。

一方、感じる必要もないのに、不安になる人もいる。気分は体調なので、それは要するに体調不良。

古来、春先になると、春に酔っ払ったみたいに、メンタルに来る人が多いことが知られている。それを整体の見地から語ると、気分の暗い時は左の後頭骨が下がっているということは言える。

薄っぺらい人間機械論の様で、実際、そうなのだが、後頭骨を上げると、さっきまでなんだったんだろうというくらいに気持ちが明るくなるのも事実。それでも暗いままなら、むしろ、それは感じるべき不安である。

春先に不安になる人は、それはただの体調不良の場合が多いので、悩むだけ損かもしれないという話だった。急に暖かくなるとそうなりやすいので、注意を換起したい。そのメカニズムは、春になると骨盤は左から開くので、それに伴って左後頭骨も下がるのである。


左の後頭骨云々は、中間をすっ飛ばしたロジックだが、鏡を見たら確認出来る。頭を右に傾けるのと、左に傾けるのとで、どちらが暗く見えるだろうか。上手な役者はこうしたことが本能的に分かっている。

2018年2月 3日 (土)

不安神経症

先日の研究会。手技のお店にお勤めになられている生徒の女性から、お客さんに絡まれたのだが、どうすれば良いかというご質問を頂いた。

自分も若い頃に開業したので、どうしても甘くみられたものだ。似た様なことは考えたなあ。

そうした勝負は、一瞬で決まる。例えば、電車に乗り込んで、どこに座るのかは選んで決めている。一瞬の間にも、人は判断もすれば、足元を見ても来る訳だ。

そうしたものに、対応する力をつける必要がある。

それを造るのが日々の稽古。意外と効果的なのが、マナーだったりする。守りさえすれば、それだけで下駄を履ける様なところがある。

そんな訳で、お辞儀の仕方から稽古をした。日々、企業でお客さんの対応に追われている中鉢さんはお辞儀が綺麗。見本を見せて頂いた。

礼儀というのは相手の為でもあるけれど、自分の身を守る為にあるもの、という気もするのだ。しかし、そういう自分だが、若い頃は無礼と言われて、今は慇懃無礼と言われるので、どの口で言うのかという話だが。

いつも言うのだけど、何をするかよりもどうやるかだし、どうやるかよりも誰がやるかで、結果は決まる。だから、鍛え続ける。ちょっと神経症みたいだけど、稽古というのは症状と似ている。しかも、快癒はない。

2018年2月 1日 (木)

金の延べ棒

晩年の川島なお美さんが、金の延べ棒で体を擦っていたというエピソードがマスコミで揶揄されたのは記憶に新しい。癌に対しての民間療法なのだそうである。

ところで、しばらく前に、毎週いらしている方から、検査をしたら、癌が無くなっていたというご報告を頂いて驚いた。ありがとうございますとおっしゃるので、ついつい川島なお美さんの金の延べ棒ですねと余計なことを言ってしまった。

いやまあ、半年くらい前にも、小さくなったというご報告は頂いていたのだが、正直、泉に落としたのは良い金の延べ棒ですか?それとも悪い延べ棒ですか?という感じ。

実際、悲惨なものなのだ。一昨年も末期癌の方がいらしていて、遠方の方だったので、毎月、来ますとおっしゃっていたのだが、とんと音沙汰がない。どうしたのだろうかと思っていたら、拝見した二か月後に亡くなっていたと、紹介者の方から後に伺った。

公平に言うのならば、大体、いらっしゃるのは末期癌の方が多いのだ。しかも、病院、どこぞの拝み屋さん、ウチという順番である。

また、抗がん剤の投与があるので、吐き気をなんとかしてほしいといった様に話がスライドすることも多い。結局、その後始末に追われているうちにというのもよくある事だ。洗面器を横に置いて施術を受けるなんてこともザラである。

ちなみに、先述の方は諸事情あり、標準治療は選択していなかった。また、病気のデパートの様な方でもあるので、それほど癌にこだわっていなかったというか、癌を良くするという目的をお持ちでなかったのも幸いしたのかもしれない。現状維持がせいぜいで、まさか良くなるとは思っていなかった、というのはその方の弁である。実は、こちらとしても、そんなことは考えもしなかった。

そして、何といっても、ご本人の努力が凄い訳である。病気療養の為にお仕事を店仕舞いされて、こちらが指示することは全てされていた。こんなにやりやすいクライアントというのも珍しい。それをお伝えしたところ、病気になったら生活を変えるのは当たり前ではないですか?というコメントがあったのだが、現実には、痛風になっても酒を飲む様な方ばかりである。

勿論、認知症などはもう自己責任論の及ぶ範囲ではなく、事故とか遺伝病とか言い出したらキリがないから、ある種のキャッチコピーでしかないけれど、究極には、症状や病気は存在しない。その人の生活があるだけである。だからこそ、そこに変化の可能性もある。しかし、例えば、自分が何らかの病気になったとして、その方の様に振る舞うことが出来るだろうかと考えてみると、これだけ偉そうなことを言っておいて、ちょっと自信はないのだった。

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