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2019年1月 2日 (水)

中尾拓哉『マルセル・デュシャンとチェス』

昨年は香港で詠春拳の道場を見学させて頂いた。

その動きは連続する型で構成されるのだが、現代日本人から見るといささかファニーに見えるかもしれない。つまり、何の為にやって、どの様な意味があるのか分からない。

例えば、タイトルは忘れたが、松尾スズキが出演している映画で、突然登場した子どもが綺麗な空手の型をやった後で、だからどうしたと松尾スズキが頭をはたくシーンがあったと記憶している。勿論、ウケ狙いの演出だ。

しかし、端的にあれは漢字だろう。人文字ですよ。漢字の連なりと同様に、動きを連ねて表現している。中国人の思考パターンを動作として表現すると、あの様な様式になるのではないか。まあ、中国武術は専門外なのだが、空手も広義の意味では中国武術の範疇に違いない。

そういえば、年末、那須川天心VSメイウェザーが話題だったが、ボクシングのトレーニングには、やはり西洋的、工業的な思考パターンが反映している様に見える。あの出来上がった身体を見ると、優れた工業製品の様ではないか。

身体的な表現、美学にはその文化の思考パターンが出るので、比較文化論的におもしろい。これは自分の馴染みのあるジャンルについての話だけど、舞踏や絵画、あらゆるジャンルで同様の現象が観察出来るのではないだろうか。

この辺りをまとめるとおもしろい文章になりそうなのだが、そこまでの知的能力はないので、ここで放り出してしまおう。

どうしてこんなことを書いているのかというと、中尾拓哉さんの『マルセル・デュシャンとチェス』を読んでいる途中だからだ。昨年の正月に友達から貰ったのにまったく読んでいなくて、今頃になって読んでいる。

デュシャンが絵画を離れてあの様な表現を志向する様になった理由は、視覚的なものよりも脳的な美を追及していたからだという趣旨の解説がされていて、その中間を埋めるものがチェスだったという精緻な論理展開がされている。

作品が脳内にあるうちは完璧なのだが、表現された途端にその劣化になるという趣旨の文章が、なんとなく胸に沁みる。彼の表現はそれを回避する為の方法論だったという話でしょう。素人なりに例えば、書道は?とか連想するけれどね。脳と作品が近いというか、より純粋芸術に近いかもしれない。そんな雑な話でもないのだろうが、あ、それでキース・ヘリングかとここまで書いて気がついた。

こうした話になぜ関心を持つのかというと、例えば、整体もパイオニアから数代になるとその表現が多様化するし、既にそうなっているからだ。それは弁証法的にそうなるというよりも、もうその人そのものと不可分な領域。要は時代背景とか本人の悩みね。

最近、ちょっと仏教に興味があるのも同様の理由だったりもする。日本の仏教の各宗派を眺めると、対象の解釈についてのパターンが綺麗に並んでいる様に思えるのだ。そんなに知らないんだけど、他のジャンルからフレームを持って来るとイメージはしやすい。

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